素敵なVisual Life
My Colorful Life
私の鮮やかな世界
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- 結婚してからは一度も喧嘩してないの。それが私たち夫婦の一番の自慢
心を大空に飛ばして、鳥の目の視点で描く、
見るものを癒し、そっと背中を押す油絵
結婚から10年がたった頃、車のトップセールスマンだった光明さんは、働きすぎから体を壊したことをきっかけに、脱サラし、学習塾を開いた。生活は苦しい時期もあったが、新たに手にした時間を使って、光明さんは妻と過ごす時間を大切にした。
光明さん「私は絵が好きでしたので、妻がマリオ先生のもとに声楽を習いに行くたびに連れ立ってイタリアに赴き、美術館を巡ったり、絵画を描いたりしていました。ですから、私の絵のモチーフにはイタリアの街並みが多いのです。
実は、59歳で京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)に入学しまして、それから4年間、名古屋から京都に通って絵を学びました。“子どもたちも成長して手も離れたことだし、そろそろ自身の好きなことをやってはどうか”と妻に勧められたということもありますが、いくつになっても学び続ける妻の姿を見続けてきて、刺激を受けたのが大きかったと思います」
弘美さんは、大学で声楽を教えつつ、数々の大舞台に立っては歌声で人々を魅了し、さらには群馬大学大学院に進み52歳で教育学修士を取得。そうかと思えば、今度は日本音楽療法学院に入り58歳で音楽療法修士を取得されている。
与えられた人生の時間に大きな差異はないはずなのに、何人分の人生を生きておられるのだろうかと愕然とさせられる。やはり、肺活量が違うのだと思う。知りたい、身につけたいと学ぶ、いわゆる吸い込む力と、それを表現したい、伝えたい、生かしたいと願い、惜しみなく吐き出しつくす力。それこそ、ディプロマ級なのだ。
弘美さん「一生懸命、絵を描いている主人をそばで見ていて、プロの画家として認めてもらうためにも、やっぱり美術系の大学を出たほうがいいと勧めたんです。そしたら、63歳で大学を卒業した途端に、第58回中部二紀展で奨励賞をいただきましたね。それからは、毎年いくつもの賞をもらって、もらって、もうもらいまくっていますよ。
結婚生活の前半は、私が声楽家として主人に支えてもらいましたから、後半は私が画家である主人の応援団長、プロデューサーを務めたいと思っています」
―― 光明さんは、最近(2021年)、パリ芸術文化賞フランス・ユニオン・デ・ザールもとられるなど、海外でも高い評価を得られているそうですね。愚問かと思いますが、プロデューサーである奥さまから見られての最高傑作というのはあるのでしょうか?
弘美さん「それがね、まったく選べないんです。ああ、これもいい、ああ、これもいい!と思ってしまって」
光明さん「画家は、一つの会に所属して、生涯、これと決めたモチーフを描き続けることが多いのです。というのも、次の出展でモチーフを変えると、新人とみなされてしまうんですね。私は自由気ままに描きたかったので大学を出て、あえて複数の会に所属して、『新芸術協会』ではイタリア風物画シリーズ、『春陽会』では棚田シリーズ、『現創会』では人物を中心としたカーニバルシリーズ、また別に富士山を中心とした山岳シリーズと4つのモチーフに取り組んでいます。いずれも共通しているのは、鳥の目で、いわゆる俯瞰で描いている作品が多いということでしょうか。今こうして、向き合ってお話をしながらでも、頭上から、そして背後からの姿も容易に想像できます。この視点を持つことができたのは、大学に通ったおかげですね。」
光明さんの視野が広く、懐が広いのは、心を大空に羽ばたかせ、視点を天高くに据えることができるからなのだろう。現在、『新芸術協会』理事、『現創会』運営委員、『ガラス絵作家協会』会員、『藤田医科大学』美術顧問、『ANET(愛知県美術協会)』会員など、多くの重責を担っている。
光明さん「美しいものに目が留まると、それを自分の手で表したい、この感動を他人に伝えたいという想いにかられ、多岐にわたるモチーフに挑んでいます。人の心を動かせる絵を描きたいですし、できれば絵を見てくださった方に力を与えることができれば嬉しいですね。
最近は、五つ目のシリーズになりつつあるものとして、教会を描くことが増えました。美しいものだけではなく、そうではないもの、そうは見えないものも神が創りしものなのだということ、そんな創造主がいることを感じ取ってほしいという願いを込めて描いています」
『藤田医科大学』や新型コロナ患者を受け入れて治療に当たる第一線の病院として知られる同学『岡崎医療センター』には、三輪光明さんの絵が合計13点も収蔵されている。患者様やスタッフが足を止め、見入るその絵は、どれも人を癒す力に満ちている。
光明さん「私にも、画家以外に『日本国際飢餓対策機構』での活動というライフワークがあるんですよ。実は、この民間援助団体で26年間、名古屋の事務局長を務めてきました。1995年、この団体のチャリティー・リサイタルを、名古屋ではじめて開いたのが、妻なのです。生まれて間もない、妻の幼い妹が満州から引き揚げる途中で餓死したお話はしましたでしょう? 戦争の悲惨さは、戦地だけではありません。か弱い女性や子どもたちが、もっともつらい目に遭うのです。戦争と飢えの悲惨さを知っている私たちだからこそ、二度と悲劇を繰り返させないためにと、政治にも関心を持って、自分たちにできることをやってきました」
夫婦それぞれが、精力的にボランティアやチャリティーを行うことで、困っている人々のもとへと善意の寄付を行ってきた。神様が、おもわず季節外れの大雪を降らせてでも、二人が結ばれる運命へと導いたのには、やはり訳があったのだ。