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My Colorful Life

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  3. 結婚してからは一度も喧嘩してないの。それが私たち夫婦の一番の自慢

教師にして声楽家にして音楽療法士。
80歳を目前に、今も教壇に立てる幸せ

弘美さん「私の父は、神戸で染色工場を営んでいました。当時、もう44歳で、このままでは戦争には行けないからと、せめて満州に渡って天皇陛下のために農業をやるんだと言って、再婚相手だった母を連れ立って、吉林省のソ連の国境付近へと移住したんです。

ところが、終戦の年の4月30日に赤紙が来て戦地に赴き、父はそれっきり戻ってきませんでした。私は、3歳になったばかり、妹は生まれてわずか1カ月でした。 日本に残っていれば、招集されることはなかったと思います。母は、腹違いの姉と私、生まれたばかりの妹を連れて、満州の平野をさ迷った挙句、終戦から1年半たって、ようやく日本に戻ってくることができました」

光明さん「幼い妹は、途中、飢えで亡ってしまうんです。彼女のお母さんは、本当に苦労されているのに、とても朗らかな女性でね。その人柄に惹かれて、僕の男友達が、どんどん下宿に集まってきてしまうほどでした」

四男だった光明さんは、弘美さんのみならずその母親ごと、名古屋に迎え入れるかたちで結婚。式は1968年4月14日、弘美さんが26歳、光明さんが27歳の春だった。

結婚を機に名古屋に移り住んだ弘美さんは、のちの名古屋芸術大学の母体となる名古屋自由学院短期大学に勤務。名古屋芸術大学を2014年、70歳で定年退職するまで音楽を教え続け、現在も同校の名誉教授となっている。2016年からは、春日井リハビリテーション病院など、多くの病院での20年にわたる音楽療法士としての経験をかわれ、藤田医科大学客員教授として招かれ、音楽リクリエーション・セラピーを担当。80歳を迎えようという今も、現役で教壇に立っている。

その一方で、世界的テノール歌手マリオ・デル・モナコ氏に師事し、1978年にはイタリアのVilla Maninにてディプロマを取得。名古屋二期会会員の声楽家として、平成だけでも70近いソロリサイタルや演奏会、チャリティーコンサートなどの大舞台に立ち、聴くものを魅了するソプラノ歌手としても、大いに活躍した。

弘美さんは、「黄金のトランペット」と呼ばれた声を持つ世界的テノール歌手『マリオ・デル・モナコ』に師事し、声楽を極めた。

光明さん「妻は、現役時代、名古屋で一番集客力のあるソプラノ歌手として有名だったんですよ。1992年の愛知県芸術劇場のオープニング記念の協賛事業でも、音楽部門でただ一人声をかけていただいて、チェルノブイリ原発事故の被災者のためのチャリティーを兼ねて、リサイタルを開催しました。身内のことですが、あのときは、よくぞここまでと感動しました」

1992年11月21日の愛知県芸術劇場のオープニング記念の協賛事業として、弘美さんによるチャリティー・リサイタルが行われた。

光明さん「そう、最終的にお断りしてしまったけれども、高い歌唱力と演技力を買われて、宮本亜門さんの舞台『サウンド・オブ・ミュージック』に出演できていたかもしれない、そんな機会もありましたよね」

弘美さん「主役のオーディションを受けたんですけど、落ちてしまって……。そうしたら宮本さんから、決してあなたに恥をかかせない、主役級の良い役をつくるから、ぜひ出てくださいってお誘いいただいて……。お断りしてもお断りしてもオファーをくださったのですが、私、当時、残念ながら宮本亜門さんを存じ上げなくて……。今なら、ハイ、ハイ、ハイって手を挙げて参加していたと思いますけど、お断りして正解だったかも。大喜びで東京に出ていってしまって、夫婦仲がおかしなことになっていましたよね、きっと(笑)。」

1994年10月第4回名古屋市芸術祭 三輪弘美・大野憲一ジョイント・リサイタル『オペラアリアと二重奏の夕べ』愛知県芸術劇場にて。
イタリア・日本歌曲の夕べ
1998年5月 ザコンサートホール
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