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  3. 「見えない山」を見据えて『エベレストマラソン』への挑戦

世界一スタートラインに
立つことが難しいマラソン、
『エベレストマラソン』への挑戦

ランナー

菊川 千保子さん

1963年9月23日生まれ 愛知県名古屋市出身
40代で走る喜びに目覚め、3時間30分を切るタイムでフルマラソンを走破するなど、数々の大会で好成績を収める。目下エベレストマラソン再挑戦に向けて準備中。

世界の頂『エベレスト』は、その麓にたどり着くまでの道のりすら、遠く、険しい。
Amebaブログで『rei-chan』の名で「エベレストマラソン完走を目指すrei-chanの練習日記」を執筆中の鉄人ランナー菊川千保子さん(56歳)は、2020年の春、3年前のレースを高山病で棄権せざるを得なかった悔恨を胸に、再び『エベレストマラソン』に挑む予定だった。

『エベレストマラソン』とは、ニュージーランド出身の登山家:エドモンド・ヒラリーとネパール出身のガイド:テンジン・ノルゲイが1953年に達成したエベレスト人類初登頂の日を記念して、2003年から毎年5月29日に開催されているフルマラソンの大会だ。コースは、エベレスト登山の拠点となるエベレストベースキャンプ(通称BC/標高5364m)からナムチェバザール(標高3440m)まで(一部ループあり)。といっても、単純に標高差1900mを駆け下りるのではない。累積上りが富士山まるまる一つ分の約3800m、累積下りが約5700mというから驚きだ。絶景というご褒美と引き換えに、高山病という大きなリスクも背負う、過酷な耐久レースなのだ。

『エベレストマラソン』のレースコースを逆にたどり、スタート地点を目指す。

リベンジに燃える菊川さんだったが、またしても思いもよらない「壁」が立ちふさがる。……コロナ禍だ。6月を迎えてなおロックダウンが続くネパールの現状を鑑み、2021年への延期が決定された。

『エベレストマラソン』のレースコースを逆にたどり、スタート地点を目指す。

―― TOKYOオリンピックを目指されていたTOPアスリートの方々同様、菊川さんもさぞ無念な想いを抱えておられることと思います。

菊川さん「本当に……、残念で仕方ありませんが、今はまず、新型コロナウイルス感染症の早い終息を願っています。ネパールでお世話になった人たち、前回大会でガイドを務め、私が乗った救助ヘリを最後まで見送ってくれた『フルーバ』のことも心配しています。来年の開催を見据えて、トレーニングを積み直すつもりです」

40歳を過ぎてはじめた
気晴らしのジョギングから、
5年でサブ3.5、10年で『萩往還』完踏、
そして……

―― 1000万人に迫るランニング人口がいるといわれる日本ですが、「走る喜びを知らない一般人」から見ますと、フルマラソンだけでも驚異的、それが山を登り下りしながらのトレイルランニングとなると理解の範疇を超え、ましてやエベレストマラソンへの挑戦となると鉄人領域なのだろうという印象を持っていました。ですから、菊川さんがむしろ小柄で華奢な方であることにたいへん驚かされています。

菊川さん「身長は147センチです(笑)。決して、学生時代から陸上をやって活躍してきたわけではなく、運動らしい運動は中学時代のバスケットボールくらい。実は、2005年に離婚を経験したんですが、落ち込んでいた私を励まそうとしたママ友に声をかけられて “おしゃべり目的の週1ジョギング”をはじめました。それがランナー人生の第一歩なんです。その彼女に誘われて出た『豊田マラソン』で、たまたま彼女の友人が入賞されたんですが、入賞を逃した、そのまた友人の方が悔しさのあまり号泣されていて……。ランナーたちの「ホンキ」を目の当たりにしまして、雷に打たれたように走る魅力に目覚めたんです」

菊川さんのブログのプロフィールには、「人生を生き直しています。」とある。ランニングクラブの仲間に授けてもらった『rei-chan』という名前とともに、人生の第二幕がスタートしたのだ。「離婚という挫折で終わらせたくなかったんだと思います」と菊川さん。離婚当時、息子は18歳だったが、娘はまだ10歳だった。

サブ3.5を切った2010年4月の『長野マラソン』

風を切るように走り出した菊川さんは、2年後の2007年、人生初のフルマラソン『袋井メロンマラソン』に挑み、8位入賞を果たす。いきなりのサブ4だ。サブとは英語のSub(以内)、すなわち4時間以内のタイムでゴールしたことを意味する。サブ4は女性ランナー人口の10%らしい。ランニングをはじめた人々が最初に夢見る目標を、ひょいと超えてしまったことになる。翌年の『岡崎市民駅伝』では区間賞を獲り、チームは優勝! そして、2009年10月に行われた『名古屋アドベンチャーマラソン』では、ついに個人優勝を決める。さらに、2010年4月、走りはじめて5年も経たないうちに、ハイレベルな市民大会として知られる『長野マラソン』でサブ3.5の記録を樹立。サブ3.5は女性ランナー人口のわずか3%に与えられる勲章だ。

ランナーとしては順風満帆だったが、長野マラソンのわずか3ヶ月前に最愛の母を亡くしており、失意の中の渾身のランであった。この年はいろいろあった。娘が、この春に高校に入学したばかりという状況の中、リーマンショックで元夫からの養育費が途絶える。さらには10月末には、自身の職までも失ってしまう。

――まさに悲喜こもごも、激動の年ですね。息子さんは、すでに社会人になられていたようですが、娘さんは、まだ高校生。大変でしたでしょう。

菊川さん「私立で学費も高かったので、慌てて職業訓練を受けて再就職先を探しました。ところが、その娘が“ちょっとだけ”不良になってしまいまして……。“学校に来ていません”とか、“家にも帰って来ません”とか、度々ありまして、何度も学校に呼び出され、たっぷり心配させられました。そんな娘も今では、“親のありがたみがわかるようになった”なんて言ってくれるまでに成長して……。実は、もうじき母親になるんですよ。3年前、私がエベレストマラソンに参加したいと告げたとき、もろ手を挙げて大賛成してくれたのも娘でした」

どのような逆境にあってもへこたれず、自分らしさを見失うことなく、必ず陽の射すほうを目指してきた母の姿を間近で見てきた娘こそが、一番、菊川千保子という女性の逞しさをすんなりと信じられたのだろう。「子どもたちの存在が、私を生かしてくれた」と、目を細める菊川さんは、世界最高峰に挑む挑戦者ではなく柔和な母の顔を見せた。

――無事、娘さんを短大に送り込んだ後、フルマラソンへの挑戦を続ける中、好成績を収めるも、2012年、2013年はあと数分というところで、サブ3.5が切れないもどかしいレースが続いたそうですね。

菊川さん「はい、年齢も上がり、否応なく体力が衰えていく中、3時間30分の壁が厚くなっていきました。あと7分、あと4分、あと6分……。そんなタイミングで山道を疾走するトレイルランニングやウルトラマラソンに出会い、そこで得た仲間から、“菊川さんはウルトラマラソンが向いているのではないか”とすすめられ、すっかりその気になっていくんです、またしても」

――ウルトラマラソンというのは、どんな競技ですか?

菊川さん「42.195㎞というフルマラソンの距離を超えるマラソンのことで、100㎞であったり、24時間走だったり、一定の距離や一定の時間で競う耐久レースのことです。仮眠も可能ですが、一睡もせずに走る選択をされる人もいます。私が2015年5月に初挑戦したウルトラマラソン『萩往還マラニック』は140㎞を走るもので、24時間という制限時間があったのですが、15分を残して無事完踏したんです。この限界を突破する快感に魅せられていきました。」

初挑戦のウルトラマラソン『萩往還マラニック』。140㎞を24時間以内に完踏。

――フルマラソンだけでも疲労困憊であろうことは想像に難くないのですが、その3倍以上の距離ですよね。

菊川さん「実は『萩往還マラニック』には250㎞を48時間で走るレースもありまして……」

――まさか、それにも……、

菊川さん「出ました、翌年の2016年に。ひと月前に運転していた車が廃車になるほどの大きな交通事故にあって胸骨が折れた状態で出たのですが、悔しいことにリタイアしてしまいました。決して折れた胸のせいではなく、練習不足のせいでおしりの筋肉が痛くなってしまって……。悔しくて泣きました。おしり以上に痛かったのは、許可を得た休暇だったにもかかわらず、出勤してみたら、当時の雇い主に“もう一日たりともお休みはあげられません”宣告を受けたことでした。真っ先に脳裏に浮かんだのは、“えっ!? どうしよう、来年の萩往還”でした。休みがもらえないとなると、またしても無職になってしまうという……」

――出ないという選択肢はないのですね(笑)。骨折が治りきらない中、ドクター・ストップを振り切って250㎞のウルトラマラソンに出るほどの情熱ですものね。

菊川さん「生活がかかっているので、もちろん悩みましたが、その頃には、子どもも成人していましたので……。ウルトラマラソン仲間に、その話をすると、もし仕事を辞めてまでチャレンジしたいのなら、『萩往還』もいいけれど、いっそ日本人女性初となる『エベレストマラソン』に出てみれば?とすすめられたのが、人生をかけた挑戦への始まりになりました。

あとあと調べてみると第5回大会となる2007年にネパールの方とご結婚されて現地に住んでいる日本人女性がすでに参加されていて、純粋な意味での“初”ではなかったのですが、“無理、無理”と口ではいいながら、あれこれ調べるうちにワクワクしはじめ、意を決し、その年(2016年)の『エベレストマラソン』日本人完走者に連絡をとり、早速、会ってお話をうかがうことに。気が付いたらもう心は、天空の彼方に飛んでいました。」

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エベレストマラソン活動報告

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