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焼夷弾に焼き尽くされ、炭の山と化した屋敷。
でもね、家族の命は残ったから……。

生涯現役の杉浦さんを前に、どのように生きたら、みながかくありたいと願う人生が歩めるのかと興味津々の記者が、“長生きの秘訣”についての質問を投げかけようとしたときだった。

杉浦さん「あのね、昭和20年5月14日、名古屋城が空襲に巻き込まれて燃えて焼け落ちた、あの日、市街地にあったわけでもない、田んぼの中にぽつんと2軒だけ建っていただけの我が家もB29の焼夷弾が被弾して、全焼したんですよ」

大正9(1920)年生まれの杉浦さんは、戦火を生き抜いた世代である。これだけは語りたい、伝えたいと思い、今回の取材を受けてくださったのであろう。凛とした声で、静かに、「百年にわたる人生の、たった1日、どうしても忘れえぬ日」の出来事をお話くださった。小学校の教師だった杉浦さんは、三女の寿美子さんをちょうど妊娠中で休職中だったので、その日はご自宅におられたのだそう。

昭和16年杉浦冨貴子さんと養子に入った朗さんの結婚式。前列左から冨貴子さんの母のさくさん、冨貴子さん、祖母もえさん。後列左から冨貴子さんの父の彦太郎さん、夫の朗さん、祖父の鶴吉さん。焼夷弾で焼失した屋敷前で、3代そろい踏みの一枚。

杉浦さん「防空壕に潜り込んでいると、雷が一度に十も落ちたような衝撃を受けて、みんなが一斉にひれ伏しました。防空壕の入り口は地面の高さでしょう? そこから、恐る恐る顔を出してみると、目の前の地面が焼夷弾で赤々と燃え上がっていました。逃げるのが、精一杯で、何一つ、持ち出せませんでした。
瀬古(現:名古屋市守山区)の小学校の教頭をしていた主人に知らせを出したんですが、名古屋城の飛び火で、校区内にも火が燃え広がって、その消火活動に出ていたようで……。だから、何も知らないまま疲れ果てた状態で自転車に乗って帰宅した主人は、真っ黒の炭の山になった我が家を見て、茫然としていました」

寿美子さん「残されたうちの財産は、父のコートと自転車とお弁当箱だけだったらしいです」

杉浦さん「あれは朝の10時だったから、洗濯の途中で、井戸脇のたらいの水につけてあった衣類も無事だったですね。それと、漬物石が乗せてあった壺の沢庵も少しだけ残っていました。あの日から75年、文字通り、何にもない生活から這い上がってきました」

戦後間もなく、やっとの思いで建てた仮住まいの前で。杉浦さんの腕に抱かれた幼い寿美子さん。眼鏡の男性が夫の朗さん、その朗さんと手をつないでいるのが長女の日南子さん、そしてしゃがんでいる杉浦さんの母さくさんに寄り添う次女の久仁子さん。父の彦太郎さんと妹の美代子さんの姿もある。

太平洋戦争(第二次世界大戦)の間に、工業都市だった、とりわけ航空機産業のメッカであった名古屋市は63回にも及ぶ空襲にあっており、B29の来襲は2,579機、投下弾はわかっているだけでも14,500tを超え、その被害は死者7,858名に及んだという。まさに名古屋市の4分の1が焼失した。杉浦家を焼いた焼夷弾は、大曾根にあった兵器庫を狙ったものが外れたのではないかとのことだ。

杉浦さん「家が焼けて、ドサーッドサーッと崩れ落ちるのを茫然と眺め、瓦が割れる音を聞いていました。もう、涙すら出ませんでしたね。そこからの、箸1本、茶わん一つない生活は、本当につらいものでした。
でもね、何より家族はみな無事でしたし、おなかにいたこの子(寿美子さん)も無事でした。何よりの財産。焼け出されたのが5月、出産が11月だったから、まだ産む家もなくて、夫の実家に身を寄せて産ませていただきました。この子は、失ったものを取り戻す、まさに再建に向けた希望の申し子のような存在でしたね」

地主(庄屋)の4姉妹の長女として生まれた杉浦さんは、娘の寿美子さん曰く「家付き娘」。小学校の教員だったという叔母に憧れて、しばらくは杉浦さんも小学校教師として教壇にも立って、それこそ子どもたちに絵も教えていた。お見合いで出会った朗(ほがら)さんを養子に迎えるかたちで結婚。子どもは、女の子を3人授かった。戦争で先祖代々の屋敷を失い、終戦後はダグラス・マッカーサー最高司令官らのGHQが行った農地改革により、多くの農地は地主から没収され小作人の手に渡ってしまう。朗さんは教頭であったため、手元に残った田畑を耕すために、杉浦さんが教師への復職をいったんは諦め、慣れない農作業を覚えて無我夢中で働いた。「食べていかなきゃ」「幼い子どもたちを食べさせていかなきゃ」と必死の日々だったという。

名古屋大空襲から14年がたった1959年(昭和34年)、念願だった杉浦家の屋敷を再建。何のめぐり合わせか、この年、名古屋は伊勢湾台風に襲われたのだという。ところが、14年前は一帯で2軒だけ焼失した家が杉浦家だったが、今度は一帯で杉浦家1軒のみが嵐を耐え抜いた。大工2人が丸2年もの歳月をかけて建てたという屋敷は、あの防雨風に負けない堅牢な家屋であった。

杉浦さん「私ね、教師をしていた時に、国の指導の軍事教練で、小さな子どもたちに、万が一、家の屋根に焼夷弾が落ちたら竹の先に縄をはたきのように巻き付けたもので、すぐさま払い落とすように、なんていう訓練をさせていたんですよ。それが我が家に落ちてみたら、あっという間に燃え盛って真っ黒な炭の山。子どもに竹の棒で払えだなんて……。なんてくだらない指導をしていたんだろうと思いました。本当に幼稚な戦争をしてしまったのです。戦争は、二度とあってはなりません。どれだけの命が犠牲になったか……。うちは家だけで済みましたけどね。だからね、命さえあれば、いくつになっても何でもできると思えるんです」

諭すように語る杉浦さんの目は、教師のまなざし。杉浦さんの湧き出る生命力の源流を、ふと垣間見た想いであった。

昭和58年11月3日。夫、杉浦朗さんが勲5等を叙勲した晴れの日に。
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