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  3. 現代浮世絵師・中根 幹夫さん・世相を描写する現代浮世絵師

浮世絵は、報道写真。
森羅万象をユニークな視点で見つめ、
江戸から伝わる技法で描き出す。

現代浮世絵師

中根 幹夫さん

1949年5月12日生まれ 名古屋市出身
名古屋のイラストレーターとして40年以上にわたって活躍。老後の癒しのために始めた浮世絵が巷で話題となり、さまざまなコラボレーションやメディア出演を経験。2023年も複数の展覧会を開催予定。

デザイナーからイラストレーター、
そして現代浮世絵師に。

浮世絵師として活躍し、今でも数々の作品を作り上げている。

江戸時代に一世を風靡した浮世絵。“浮世”とは定めのない世の中を指し、「そんなはかない世の中なら、浮かれて暮らそう!」という享楽的な思想から生まれたのが浮世絵だ。
浮世という言葉自体も一人歩きして、しだいに“今のあらゆる事象をとらえる概念”となっていった。浮世絵には美人画や人気の役者絵をはじめ、旅先の美しい情景や町人の暮らしの1コマなど、ジャンルを問わないさまざまなモチーフが描かれることとなった。
0.1ミリレベルの細線を駆使して繊細かつ大胆に描き上げる浮世絵の技術や世界観を踏襲しながら、今という時代をユニークな視点で切り取って作品にする「現代浮世絵師」として活躍するのが名古屋市在住の中根幹夫(なかね みきお)さんだ。中根さんは、ロシアのエルミタージュ美術館にて現代浮世絵展を開催するなど精力的に活動しているが、作品を販売することはしないと言う。しかし、主催者の方などとコミュニケーションをとって、話しが弾めば作品を無償で差し上げることもあるとか。現にエルミタージュ美術館の美術館長と劇場長に浮世絵原画を贈呈し、たいへん喜ばれた経験もある。
そんな人間味溢れる中根さんが、商業イラストレーターとして長年活躍し、50代から浮世絵作品づくりをスタートしたいきさつや、現代浮世絵師としてのこれまでの活動、2023年春に名古屋アイクリニックで行なった白内障手術のお話などをうかがった。

明るい笑顔でお話してくださった中根さん。今の素敵なお姿があるのは、これまで積み重ねてきた経験や努力があってこそなのだと感じる。

―― 中根さんが着ておられる素敵なTシャツも浮世絵ですよね。そこに書いてある「笑門来福」は、もしかして中根さんのモットーですか?

中根幹夫さん(現代浮世絵師)「そうなんです(笑)。このTシャツは、この夏の展覧会スタッフ用にと後輩が作ってくれたんです。『笑う角には福来たる』には、難しく考えずに肩の力を抜いて笑っていれば、おのずと良いことが寄ってくるんだよという気持ちが込められているんですよ。」

―― 中根さんは浮世絵師になる前はイラストレーターとしてご活躍されたとお聞きしました。イラストレーターの道を志したきっかけや、イラストレーター時代のエピソードをお聞かせください。

中根さん「私が絵の道を志した頃は『イラストレーター』という言葉は定着していませんでした。コピーライターという言葉もなかったですね。デザインのことは『図案』と呼んで、デザイナーがポスターなどの構図からイラスト、コピーまでをすべて手がけていました。
道路はもちろん家の屋根にまでゼロ戦(零式戦闘機)の絵を描くような幼少時代を過ごした私は華やかな図案の世界に憧れ、著名なデザイナーを輩出していた日本デザイナー学院が名古屋で開校したことを知ってその門を叩きました。」

―― 有名なデザイナー育成の専門学校ですよね。レベルはやはり高かったのでしょうか?

中根さん「おそらく名古屋校の1期生か2期生だったと思うのですが、学校には同級生が何百人といて、はじめは自分以外の生徒はみんな天才なのかなと思っていました。
ところが最初のデッサンの授業で私の作品が1番に選ばれて。自分の才能に気づいた反面、それでデザインをちょっと舐めてしまいましたね(笑)。」

―― いきなり1番をとられて、その後も成績優秀で日本デザイナー学院を卒業されたのですか?

中根さん「日本デザイナー学院は2年制の専門学校だったのですが、実は1年半ほどで授業に飽きてしまって自主退学したんです。
そこから遊んでいるわけにもいかないので、名古屋のデザイン事務所に作品パネルを持って面接に行きました。その頃はまだ、デザイン事務所も名古屋では数社しかなかったんですよね。」

―― デザイン事務所に就職されてからイラストレーターとして独立されるまでのいきさつも教えてください。

中根さん「デザイナーとして入社したものの、どうもデザインの全体像を考えるのが苦手で、しだいに絵の部分ばかり大きくなってしまって(笑)。
そうこうしているうちに大手広告代理店の四日市事務所に出向となってしまったので、広告デザインの仕事はそこそこに自宅に帰って絵ばっかり描く生活を送っていました。」

―― その状況からどうやってチャンスを掴まれたのですか?

中根さん「描いた絵を有名なコンペに出品したら『特賞』をいただけたんです。しかも、受賞でいただいたギャランティーが当時の仕事の月給くらい。それがきっかけとなって“今後は絵でいこう”と心に決めました。18歳くらいの頃です。」

―― 10代でコンペ受賞、すごいですね! そこからイラストレーターの活動を?

中根さん「受賞を機に別のデザイン事務所にイラストレーターとして移籍して数年を過ごし、仕事を通じて知り合った仲間と一緒に自分たちのデザイン事務所を20歳で立ち上げました。64歳で退職するまで、その事務所で40年以上働きましたね。
10人ほどの事務所でイラストレーターは私1人だけ。残りは全員デザイナーだったので、各々からひっきりなしにイラストの依頼が来て大変な日々でした。」

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