素敵なVisual Life

My Colorful Life

私の鮮やかな世界

  1. ホーム
  2. 素敵なVisual Life
  3. 結婚してからは一度も喧嘩してないの。それが私たち夫婦の一番の自慢

結婚してからは一度も喧嘩してないの。
それが私たち夫婦の一番の自慢

画家

三輪 光明さん

1941年4月3日生まれ 愛知県出身

声楽家

三輪 弘美さん

1942年1月23日生まれ 群馬県出身

画家と声楽家。運命に導かれ夫婦となったふたりは、お互いを刺激しあい感性を高め、才能を開花させた。今もなお第一線で活躍する名古屋のご夫婦アーティスト。

60年前の4月29日、仲間とリヤカーを引いて、
うちに下宿生がやってきました

芸術家同士の夫婦は決して珍しくないかもしれないが、三輪光明さん(80歳)、弘美さん(79歳)の場合は画家と声楽家、そのフィールドは近そうで遠い。思わず馴れ初めをうかがうと、奥さまの弘美さんが、にこやかに弾むような声で、ちょっと悪戯っぽく、60年前の日のことを、あたかも昨日の出来事かのように語ってくださった。

画家の三輪光明さんと、声楽家の弘美さんご夫妻。

―― お二人は、どこで、どのようにして出会われたのでしょうか?

三輪弘美さん「出会ったのは、群馬県の高崎市で、もう60年も前のことです。うちは、戦後、満州から引き揚げて来たのですが、戦争未亡人だった母は養護施設に住み込みで勤務しながら、私と腹違いの姉を育ててくれました。彼と出会った、その春、私は群馬大学の教員養成課程だった学芸学部の音楽科を卒業して、藤岡女子高等学校の教員として勤めはじめたばかりでした。まだ、その養護施設に住んでいたのですが、そこに下宿人として招かれてやって来たのが、高崎経済大学に通う主人だったんです。主人とは本来、同学年なんですが、こちらは二浪していたので、まだ大学3年生だったのよね(笑)」

三輪光明さん「その施設の職員が女性ばかりで不用心だというので、男子学生を用心棒代わりに下宿させたいという話が大学に来て、素行のいいのを一人送ってくれということで、私に声がかかったようなのです(笑)」

弘美さん「引っ越しは、祝日だった4月29日でした。本棚一つと布団一組をリヤカーに乗せて、たったそれだけの荷物を10人もの男友だちとワッセイワッセイと神輿のように引いてやってきたのが主人でした。 翌日の朝、出勤のため靴を履こうとしていたら、向こうからサササーッとスリッパの音が近づいてきて、彼が“おはようございます!”って声をかけてくるではないですか。でも、私の出た学校は、地元では、あの学校の出身であれば政財界を担う人間の妻になれるといわれるような、厳しい校風で有名なところでしたので、当然“男性と軽々しく口をきいてはいけない”と教わっているわけですよ。男性と手紙を交換しただけで停学になるような学校でしたから。返事もできないまま出ていこうとしたら、後ろから何らひるむことなく、 “行ってらっしゃい!”ともう一声かけてきて……。最初はびっくりしてしまって、“もうっ、変な人”って思いました(笑)。でも、それがすでに意識のしはじめだったかもしれませんね」

光明さん「私のほうは、名古屋市立向陽高校の出身で共学育ちですので、朝の挨拶をすることに、ためらいなどなかったわけです。ただ、なんて姿勢の良い、てきぱきとした身のこなしの女性なんだろうと思いましたね」

アイザック・スターンのチケット2枚と、
天から降ってきた素敵な贈り物

光明さん「実は、結婚25周年を迎えた年、毎日新聞の2分の1面を割いて記事にしていただいたことがあるんです。1993年の11月22日“いい夫婦の日”に、“夫婦の数だけドラマがある”というタイトルで。」

結婚25周年を迎えた1993年11月22日のいい夫婦の日、三輪夫妻を取り上げた特集が毎日新聞に掲載された。

弘美さん「私たち、結婚してから一度も喧嘩をしたことがないのが、夫婦としての唯一の売りなんですよ。ただ、お付き合いをしている間は喧嘩ばかりでしたね」

光明さん「宗教観が違ったんですよ。僕のほうは、曹洞宗の澤木興道という偉いお坊さんについて座禅をやっていて、たびたび断食をしに山に籠ったりしていました。最長13日間の断食も体験しました。ところが、妻のほうは敬虔なクリスチャンでしたから」

弘美さん「“今度、教会に来てね”なんて誘おうものなら、“愛してはいるけれど、宗教は別だ”とか言われて、そこからチャンチャカ・チャン・チャン・チャンと始まるわけです。彼は大学卒業と同時に名古屋に帰ってしまっていましたから、それから先は高崎と名古屋の遠距離恋愛でした。それでも1カ月に一度は、名古屋で会ったり、高崎で会ったり、真ん中の静岡や軽井沢で会ったりと、お互いに行き来しながら交際を続けていました。

そんなお付き合いから3年経ったところで、彼にクリスチャンになってもらうのはもう無理だと、私のほうから諦めました。私の勤め先の高校の先生方にも、“よぅ、坊さんは元気か?”なんてからかわれるほど、彼は信心深いことで有名でしたし。私は私で、ともにクリスチャンとして生きていける人と結婚すると心に決めていましたから、名古屋の彼にお別れの手紙を書いたんです。

そうしたら、 “お別れはしかたないけれど、今度、東京文化会館であるアイザック・スターンのコンサートはどうするんだ。行ってもいいんだろうか。席が隣同士になるけれど”って、彼から電話がかかってきまして(笑)。私たち、1年くらい前に購入したチケットを1枚ずつ持っていたんです。そこは、音楽家の卑しいところで、“どの音楽会に行っても、見ず知らずの方と隣り合って座ることはあるわけだし、いいんじゃないの?”などと答えてしまうわけです(笑)。世界一のヴァイオリニストで、当時の私の月給ひと月分くらいの高額なチケットでしたしね。

そして、いよいよコンサート会場で隣り合って座ることになるんです。お別れだっていうのに、スターンの演奏があまりにも素晴らしくて、いろんな思いがこみ上げて泣けてきてしまいました。涙ながらに外へ出ると、会場に入るときには何でもなかったのに、大雪で真っ白に! その光景に驚きながらも“これでお別れね”と私が口にすると、彼が“いや、この雪では途中で高崎線が止まる。この状況で君だけを帰すわけには行かないので、高崎まで送る”っていうんです。

確かに、列車は立ち往生して、大宮あたりで列をなして止まってしまいました。上野を出たのは21時頃でしたが、高崎についたのは翌朝の5時。当時は携帯電話もありませんから、駅についてすぐに公衆電話から母に電話をして、“三輪さんに送ってもらったけれど、ここでお別れする”と告げたんです。そしたら、母にひどく怒られましてね。“せめて朝食をとってもらって、お風呂に入って仮眠をとっていただいてからお帰りいただくのでなければ、母の顔が立ちません!”と」

光明さん「それで、下宿まで送って行きまして、“これでお別れだけど、君のために君の神様にお祈りするよ”と言って、“アーメン”と一言、口にしたんです。すると、不思議なことに、コロッと気持ちが変わってしまって。あっ、僕は今、クリスチャンになったんだ、この祈りは神に届いた……と感じました。それで、“神に聞き届けられたから、君は必ず幸せになるよ”とだけ言ってお別れしました」

―― えっ!? 改宗を決意されたのに、お別れしたんですか?

弘美さん「彼が名古屋の教会に通いはじめたと聞いて、非常に複雑な想いでしたが、私は自分から別れを切り出した身でしたから……。そうしたら、私の通っていた教会の牧師様と彼の教会の牧師様が、宗教の問題だけで別れたのだから、障害がなくなった今、二人は一緒になるべきだろうとご相談なさったみたいで……、私に名古屋の教会員に三輪光明さんという良い青年がいるんだが、お見合いだと思って、ご結婚相手にどうだろうって(笑)。私たち、あの日、大雪が降っていなければ結婚していなかったでしょうね」

事前にとってあったアイザック・スターンのチケット、二人にとっては天から降ってきた贈り物のような大雪、お母様の温かな叱責、牧師様同士の粋なおせっかい、まさに神の思し召しで、結ばれたご夫婦だったのである。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4

素敵なVisual Lifeトップに戻る

PAGETOP